頭脳明晰な鼠はとっくに計画を立てており、前日から出発していた牛の背に飛び乗り、御殿の門が開いたと同時に牛の背中から降り、走って御殿に入ったので、早々に玉皇大帝の元に辿り着き、十二支の一番になりました。ところが猫は鼠が言った元日の次の日に辿り着かなければいけないという嘘を信じてしまい、のんびりと御殿に到着した時にやっと自分が遅れてしまったという事実を知ったのでした。こうして猫は十二支に入る機会を逃し、自分を騙した猫と天敵となるのでした。
これまで童話、神話、寓言を主軸にした創作を得意とする湯真藤子は、広く知られている十二支からインスピレーションを受けただけでなく、私たち誰もが知っている椅子取りゲームと十二支の座を獲得した動物たち、そして失意の猫を主役に迎え、それぞれのキャラクターを生かし、ドラマティックで濃厚な人物性を表現しています。
湯真藤子の手により十二支達は伝統的な寓言のイメージを覆し、豊満且つ妖艶で個性に満ちた美女と化したのです。彼女たちの表情はどの子も自信と驕りに満ちた笑顔と姿勢で自分がこのゲームの勝者であることを誇示しているようにみえます。それに引き換え十二支の座、つまり椅子を奪うことが出来なかった猫はというと、寂しそうに真ん中に佇み、自分の犯したミスによる自己嫌悪に打ちひしがれているのでした。
この勝者と敗者が鮮明に分かれている物語は、弱肉強食な社会に常日頃存在しているのです。学業、仕事、恋愛…誰もが己の目標を達成するために競争をしています。そして最後の最後になるまで誰が勝者か分らないし予測も出来ない、少し気を抜けば、自分の物かもしれなかった椅子が奪われてしまう。そう、それはまさに盛大な椅子取りゲームのように。
かわいそうなねこ、努力をしたのに一時の怠慢で栄光を掴むことができませんでした。もしかすると私たちもある時、または曾て失意と失望の中にいる可愛そうなねこだった瞬間があったのではないのでしょうか。
過ちにより悩み、苦しんだねこ。私たちにできるのは立ち上がり、過去を振り払い、自分だけの椅子を探し出すためにただひたすら運命に立ち向かう。しかし人生は遊戯とは違います、攻略法がないだけではなく、常に難題に悩まされ、様々な危険が潜んでいる。「肩の力を抜き、気軽な気持ちで人生の起伏に向かい合ってはいかがでしょうか?」湯真藤子の作品は私たちにそう訴えかけているようにも取れます。豊かな色彩と妖艶な人物描写はユーモアに溢れながらも強いインパクトで物語は構成されており、まさに湯真藤子自身の人生経験と感性から放たれるエネルギーを筆に込めたのです。
観る方は喜劇と悲劇が入り混じる構成に思わず微笑んでしまうのと同時に、彼女の人生に対する反省と悟りを感じることでしょう。